恵春堂の思い

●恵春堂の軌跡貴重なおたね人蔘を 大根島から全国へ

大根島の人蔘農家にとっては
海外への輸出品であった貴重なおたね人蔘を 大根島から日本全国へ広めた「恵春堂」。 そのきっかけとなったのは
人蔘の力を身を持って知った 初代由志園園主・門脇栄とその家族の
人々の健やかな暮らしを願う 切なる思いがありました。

人蔘栽培の歴史:18世紀頃~昭和30年頃

人蔘の栽培は、18世紀初め、松江藩松平家の六代藩主・宗衍公が赤字財政を立て直すために幕府から“種”を拝領したことに始まります。人蔘は金より価値があるとまでされ、「御種(おたね)人蔘」と呼ばれました。 大根島では19世紀半ばから栽培が始められ、火山島で黒ぼく土壌であったことから、ことのほか良質の人蔘が育ちました。 明治時代には庶民が人蔘を栽培できるようになり、昭和30年代頃からは盛んに栽培されるようになります。門外不出であった松江藩の栽培方法を忠実に守り、島民気質も相まって丁寧に育てられた大根島の人蔘は、本場、台湾や香港に輸出され、高い評価を得ていました。けれど貴重な輸出品ゆえ、島で栽培していながら、島の人はその恩恵に預かることはありませんでした。

由志園の初代園主・門脇栄(後列左から2人目)。野菜や花の行商をしていた頃。(撮影/渡部英)
昭和20年頃の牡丹園。島の女性たちは、30年〜50年頃に入るともう一つの島の
特産である牡丹の行商で全国をまわるようになる。(撮影/渡部英)

島の人々の、 そして全国の皆さまの 健康を切に願って

昭和40年代初め、門脇栄は、家族が一緒に暮らせるようにと観光施設を島に建設するという大きな夢を追い求めていました。広大な農地が必要な人蔘を栽培できる農家は限られ、島には企業などないため、女たちは花の行商に、男たちは出稼ぎに行かなければならない時代のことです。門脇家もその例外ではありませんでした。

しかし、子どもの頃から病弱だった栄は、当時も大きな病気を抱え、夢の実現は無謀とも思えました。ある日、島を訪れた人から「人蔘は体にいいものだから、島の人もどんどん摂りなさい」といわれたのをきっかけに、栄自身も人蔘液を作っていた農家にわけてもらい飲み始めました。すでに還暦の年齢でしたが、体調が良くなり、おかげで誰もが不可能だと思っていた日本庭園・由志園を完成させることができたのです。その後、2代目の園主である門脇恵美子は父の志を受け継ぎ、人蔘を商品にして島の人はもちろん全国の皆さまにお届けしたいと「恵春堂」を由志園にオープンさせました。最初は「人蔘液」だけでしたが、後に手軽に摂れるようにと顆粒やドリンク、さらには人蔘に含まれる成分の洗浄・保湿効果を生かした肌に優しい化粧品など様々な人蔘商品も生まれました。現在、恵春堂は三代目の豪社長のもと、全国の多くの皆さまの健やかな生活を願って、おたね人蔘の良さをお伝えしています。

スタッフと一緒に売り場に立ち、 お客様に高麗人蔘液や せっけんの説明をしていた 2代目の門脇恵美子元社長。
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